2013年10月24日木曜日

Morocco Khemiset モロッコのケミセットは、アジア週間 الخمیسات

Morocco_Khemiset_summer 2012 by @tofe_75
Morocco_Khemiset_summer 2012, a photo by @tofe_75 on Flickr.

モロッコはケミセットالخمیساتの州知事さんが、とてもアジアびいきで毎年アジア週間として、アセアンプラス日本・韓国・中国の大使館連携で催しものを開催します。

出し物は様々ですが、例えば、タイからは、野外にリングを設営してタイのキックボクシングの選手を招聘し、試合を見せたり、日本の場合は、モロッコの柔道連盟からビニール畳を借りて、これも、野外に敷き詰め、柔道や弓道をモロッコの一般大衆にご披露したりしました。

さらには、野外ステージを設けて、なんと、日本人バンドで演奏をし、拍手喝采を浴びました。曲目は、デープパープルのハイウェイスター、マイリトルラバーのメンアンドウーマン、あとなんだったけかなあ。。。そうだ、大使公邸の首席コックさんがアコースティック・ギターで弾き語りをしました。曲はイマジンだったかも。

とにかく、あまりに受けて、踊りだす人もいたので、警官が配備されてしまいました。観客席前列にはモロッコの、いわゆる、VIPもいましたので、そうなったんですね。

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2013年10月22日火曜日

Asilah/ أصيلة - Maroc – Morocco タンジェからアシラ

タンジェの港から列車に乗っても、また、車で海岸沿いをラバトに向かっても、やがて、アシラー、アラビア語ではむし ろآصیلةアシーラという街に到着します。ここは、ほんとにちいさくまとまっていて、観光するにはもってこいなのですが、初めて来た旅人にダマシもある ようです。

タンジェで誘われて、アシラーで降ろされて、絨毯などの土産モノ屋に連れて行かれたり、宿やでもない民家に泊められてホテル並に料金を取られたりすることがあるようですがそれは、それで旅の一コマだと思います。なんてことはありません。

ガイド、ガイドとうるさくて、困ったという人もいますが、一人つかまえてチップをあげれば、他の人はよって来ません。ただし、「絨毯屋にはつれていくなよ」といえばいいでしょう。

アシラーの旧市街の端は大西洋に面しています。海は静かな時もあれば、荒れ狂ってる時もあります。ある日、「日本人が宿賃 を払わずにとんずらした!」といってアシラーからおばさんがわざわざラバトの大使館まで訪ねてきました。そんなことあるのかと思いパスポートのコピーを見 せてもらいましたが、パスポートは韓国か北朝鮮のモノでどう見ても偽造品でした。

日本からの観光客が多いので、写真を見て、日本人だと思ったんでしょうね。「おばあさん、日本人で宿賃を踏み倒すなんてい う旅行者はまずいませんよ。これは、韓国や北朝鮮のモノでしかも、偽物です。」と説明しましたが、おばさんは、くやしそうでした。「だって、日本人だと いったんだもの。」電話代も結構な金額になっていたそうです。。。。ひどいやつがいたもんだ。帰りの電車賃をカンパしてあげました。

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2013年10月20日日曜日

今も昔も国際都市タンジェ。そしてナーイブ。

タンジール。タンジェ。طنجة、いくつもの表記があるモロッコの玄関口、国際都市ですが、港をでると、やがて、広いとおりに出て、かつては、すぐ左手に駅が見えてきました。タンジェポール(tanger port)だったとおもいますが、ここから列車に乗って、フェス、ラバト、カサブランカ、マラケシュとモロッコの奥へ奥へと入っていくことができました。今は、タンジェビル(tanger ville)が最初の駅になっているようです。物流の拠点が東のタンジェの新港タンジェメッド(tanger med)に移ったからなんですね。モロッコも経済活動が着実に拡大しているようです。
 
タンジェポール駅の反対側に、シェリタリングスカイでも登場した古い建物が見えてきます。フランス保護統治時代、映画カサブランカを思い出させる印象的な白い建物です。 その裏手のほうはずっと小高い丘になっていて、旧市街に入ります。プチソッコやグランソッコという名前が出てきますが、ソッコはアラビア語のصوق・ souk・スーク・市場が転訛したものです。ここは、昼は、観光客相手の土産物屋が並んでいて楽しいです。タンジェの街は、夜は夜で別の顔がありますね。。。。。。。

また、グランソッコから港に通じるRue Siaghine はその昔、紀元前のローマ時代はメインストリートだったよです。今は、メイン通りとはまったくいえませんが、Hotel El Minzahという5つ星ホテルがあります。この近くには1860年から1923年までナーイブ نائبが使用していた屋敷もあります。ナーイブは起源はオスマントルコ行政ポストを示す名称ですが、その地方地方を治める力のある人物がなりました。モロッコでもナーイブは、スルタンと各国大使の間を取り持つ偉い人が就く重要なポストでした。

ナーイブの力を示す絵や写真が残っていますので、今でも雰囲気がわかります。 下の絵は、カルナチック(インド南東部の海岸地方。18世紀中ごろ、英仏が主導権をめぐって抗争し、英国が支配権を得た)のナーイブが英国東インド会社との条約を締結した場面ですが、とっても偉そうですね。

File:Major-General the Hon. Arthur Wellesley being received in durbar at the Chepauk Palace Madras by Azim al-Daula Nawab of the Carnatic 18th February 1805.jpg
A portrait of Azim-ud-Daula by Thomas Day

2013年10月18日金曜日

オット!タンジェ側フェリー乗船前の心構えについて。

cannabis by Cappez
cannabis, a photo by Cappez on Flickr.
アルヘシラスからのフェリーはさほど何事もなく車ともども乗船するのですが、モロッコ側のタンジェではそうはいかないのです。タンジェでは、フェリー乗り場につくと、乗船する車の列に捜査官とシェパードがやってきて、車の下を「くんくん」します。

一台一台クンクンしていくのです。そういえば、どこの国際空港でも言われるのが、「荷物の空きがあるからといって他人の荷物を預かるな」ということです。「5000円払うからこの荷物そっちにつけてくれない」という申し出は「できません。」と断った方が懸命です。その荷物の中身と国次第では命にかかわるでしょう。

さて、モロッコのリーフ地方は、ハシシの一大産地なので持ち出しが絶えません。車に積んで堂々とフェリーで持ち出すというのがあるのかというと、そんなにはないでしょうけど、中には、カフェでお茶していて、自分が知らないうちに、車の下にくっつけられるという手口があるので気をつけなくてはなりません。そこで、犬が車の下を「クンクン」しているわけです。

リーフは数回にわたり訪れましたが、カンナビスのパラダイスで、どちらサイドの人も、見る人が見たら卒倒してしまうでしょうね。一人は「天国!」といい、もう一人は「地獄!」と言うでしょうね。

2013年10月17日木曜日

700年は「異常」なくらい長い期間だなあ。その1

Cadiz by matoses
Cadiz, a photo by matoses on Flickr.
アルヘシラスのフェリー乗り場に到着すると、対岸には、アフリカ大陸が見える。ここに来ると、ある人は、ヨーロッパを離れてこれから北アフリカモロッコのアラブ・ベルベル世界に足を踏み入れるんだということで少し、緊張するかもしれないし、ある人は、故郷にかえるような懐かしさでいっぱいになるかもしれない。小生は完全に後者である。

スペインは、かつて、約700年間もイスラムの支配下にあった。それは、711年から1492年グラナダにあった最後のイスラム王朝が再征服され、キリスト教徒によるレコンキスタが完成するまでの約700年だが、レコンキスタから今年2013年までで、約500年位しか経っていないのを考えると、700年間というのは本当に「異常」ともいえるほど長い期間なのである。

この間をスペインのアラブ化というかベルベル化というかは別として、イスラム支配下に置かれていたことは確かである。キリスト教徒ユダヤ教徒ともにイスラム側から、「啓典の民」として一応庇護されていたとしても、人頭税、土地税という税金を負わされていたし、日々の生活でもかなりの屈辱を甘受せざるを得ない状況であっただろう。

モサラベ(ムスタアリブمستعرب、アラブ化したもの)は、言語文化的にアラブ化したものの、服装で区別され、ムスリムが通れば立ち上がらなくてはならない、家はムスリムの家より低くなければならない、教会の鐘は小さくならさなければならない等、様々に被征服民としての対応を強いられた。

2013年10月15日火曜日

麗しのティオペペのお姉さんに会えるかも。

Tio Pepe girl by van.brussel
Tio Pepe girl, a photo by van.brussel on Flickr.

ヘレス・デ・ラ・フロンテーラJerez de la Frontera, Españaはいわゆる”シェリー酒”の産地ということになっています。街なかには、ボデガがあって、樽から直接売ってくれます。甘口から辛口まで全部揃っています。そりゃそうですね、産地直売ですから。

何かの空き瓶を持参して行っても、店のおじさんは、リットルで売ってくれるので問題ありません。まあ、もともと、量り売りは、掛け合いが大切なので、日本のようにあまり細かいことは気にしなくていです。

仕込みに使った樽は、これをイギリスに持って行って、マッカラン等の香り付け熟成に使用されます。高速道路でセビリアからひとっ走りです。特に、N-ⅣからN340ルートは海岸沿いをアルヘシラスまで走るので最高のドライブになるでしょう。

運がよければ、あの帽子をかぶったティオペペのきれいなお姉さんからティオペペを振る舞ってもらえるかもしれません。

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2013年10月13日日曜日

知らないと損!掘り出し物がみつかるかも。でも、だまされないでね。

セビリアのフェリア通にある「エル・ホエベス」という店の2階が週単位で貸してくれるオスタルになっていました。ホエベスは木曜という意味ですが、木曜日になると、ここの通りにヤミ市というかガラクタ市というかノミの市というか、そういうお店が並んで商売をはじめることになっているのです。

今は観光スポットになっていますが、20年くらい前はあたりは結構いかがわしい街区だったのです。サンタクルスからフェリアに移るとき、オスタルのおじさんやおばさんが眉をひそめて「あんなところにいくの!やめなさい!」といわれたんですが、週単位で貸してくれるのでお金がないバックパッカーには都合がよいのです。

ヤミ市では、よくイタリカ、これはセビリアから一番近いローマの遺跡ですが、ここで取れたというコインが人気でした。もちろん、にせものですがね。青銅に見せかけるためうまくめっきをしてるんです。端っこを地面にこすり付けるとすぐわかります。めっきがはげて中の鉄が出てきます。もちろん本物は博物館のカタログに載るくらいの青銅品です。

よく、モロッコ人やヒターノと仲良くなってスペインでの暮らしぶりについて話をしました。彼らは、結構、厄介者の扱いを受けていてのけ者になっていたりするので、偏見がなく、利害関係もない、東洋人のバックパッカーの小生には色々なことを教えてくれるのでした。どうやって、物乞いをビジネスとして成立させるのかとか、非常に面白い話を教えてくれたのです。このブログの中でもそのうち、書き残そうと思います。

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2013年10月11日金曜日

ガラスが割れるぅ~ ぺぺのお店 キタペサレス

アザフラン AZAFRAN というのは、日本語でいうとサフランになりますが、アヤメ科の多年草でめしべが貴重な薬剤及び染料になるのです。スペ インでいうとパエリャ、モロッコだとクスクス、イランだとチェローケバブなどに使えわれて、きれいなオレンジ色の発色になります。お米や小麦粉と相性がい いんですね。

セビリアにアザフラン小路というのがあって、ピソを借りてしばらく逗留しました。その小路の北側の広場前キタペサレスQuitapesares哀しみよさようなら、という名の飲み屋さんがあるのですが、そこのマスターがぺぺさんです。

ぺぺ・ペレジルPepe Perejil は、若い頃にファン・カルロスに呼ばれて王宮で歌ったフラメンコ歌手なんですが、その声でガラス窓が割れるという伝説の声量の持ち主なんで す。体もおっきいですよ。カマロンなんかが有名ですが、ぺぺさんは商売っけがないのか、自分の店でテープ等を売っていました。興が乗ると歌ってくれるので した。




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2013年10月9日水曜日

必見!スペインセビリアの見方が5度変わる歴史旅2

アンダルシアの写真
コルドバ メスキータ 
1013年、ムラービト朝の下では、ユダヤ人コミュニティは散々な目にあうようです。イスラム勢力といってもその性格はできた場所や構成員によって異なります。

北アフリカのいわゆるベルベル人の中にイスラムの政教一致を求心力として新しく征服活動の熱にほだされた人たちが出現するわけですが、その一団は北上し、イベリア半島に雪崩れ込むのでした。

前述したマラケシュはこの時王宮として整備され、中心地となったのでした。先のブログしたクトゥビーアもこの辺りにできたマスジド(モスク)なのです。

セビリアは、コルドバ等から逃げてくるユダヤ人の避難場所を提供することになったのです。やがて、ベルベル人の征服活動も熱が冷めていくんですが、ラクダにまたがったり、馬にまたがったりすると、なんとなく、自分がどこへでも行けそうな、なんでもできそうな感じになるんですね。さらに、仲間が大勢いれば、「それー」なんて言って、他の街になだれ込んていって、征服だ~となってしまうのでしょうか。

クリスチャンスペイン人にとっての「モーロ」の凶暴で残忍なイメージはここらあたりの歴史から連綿と続いているのでしょう。ただ、「モーロ」といっても、ここがまた複雑なところでもあるんですが、モロッコにはいわゆるアラブ人とベルベル人とがいて両者は区別されています。現在もアラブ人にはイスラム法が適用されますが、ベルベル人には独自の慣習法が適用されています。

スペインとモロッコの関係もなかなか複雑なものがあります。クリスチャンスペインにとって1492年レコンキスタが完了するまでの約700年というのはひたすら長い時間ですね。共通の文化的遺産(例えば、前述ブログのセビリアのヒラルダの塔とマラケシュのクトゥビア)を持ちながらも、お互い、相容れないものもかなりあるのですが、そのへんの事情もおいおいブログしたいと思います。隣国同士というのは、どこでも、事情が似通ってきますね。


ヒラルダ~くるくるちゃん その2

 クトゥビーヤ・モスクとミナレットの写真 - 観光名所の画像
クトゥビーヤ
 セビリア大聖堂の写真
ヒラルダの塔
塔といえば、セビリア大聖堂の脇に立っている塔はもとは、イスラムマスジッドのミナレットだったんです。んたー。レコンキスタ中盤の1248年まではね。。。1402年にカトリックの教会として建築が開始された後、ゴチック建築の塔が上に被せられました。その上にヒラルダのくるくるちゃんが乗っかったんです。

よく見ると、上から3分の1はカトリックの教会様式で下の3分の2はイスラム建築なんですね。帽子をポッコとかぶせられたみたいです。なんか、デザイン的にちぐはくな印象をうけるのは、そこから来ているのでしょうね。

もともとはどのような塔だったのかを知るには、モロッコを訪れるのがいいでしょう。例えば、マラケシュのクトゥビアが一番わかり易いですね。左の写真です。こんな感じです。セビリアのクリスチャンもさすがに、塔全部は破壊できなかったのですね。そのへんのいきさつがわかると面白そうですが、さすがに史料は残ってないでしょうか。

セビリアのヒラルダの塔は中をスロープにしてあっててっぺんまで登れますよ。行かれた方も多いと思いますが、そこからかつては、アザーンが響きわたっていたわけです。アザーンについては続きを、今しばらくおまちください。

 クトゥビーヤ・モスクとミナレット (トリップアドバイザー提供) セビリア大聖堂 (トリップアドバイザー提供)


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2013年10月8日火曜日

必見!スペインセビリアの見方が5度変わる歴史旅1

セビリアにはユダヤ人街というのがあって、町の中心地でとてもよい場所にあり、オスタルとかピソとして観光客に貸している家が多いので、泊まったことがある人も多いと思います。

Barrio Santa Cruzの写真現在は、サンタ・クルス街Santa Cruzと呼ばれています。スペインに旅したことがある人は思い出したかもしれませんね。サンタクルス街は、ムリッリョ庭園、アルカサル、マテアス・ガゴ路地、サンタ・マリア・ラ・ブランカ/サンホセ路地に囲まれた街区です。

今現在の家の持ち主はクリスチャンのスペイン人がほとんどでしょうけれど。かつては、ユダヤ人がここに固まって住んでいました。ロス・ギャロスなどのタブラオフラメンコがあったりする観光の目玉的な場所になってますね。

セビリアにユダヤ人が住み始めたのはいつのことなのか6世紀~7世紀という説もありますがより詳細な年代を記載する情報を持っていません。しかし、712年より始まるウマイヤ朝イスラム支配下のセビリアにあって、セビリアは文化的に重要な都市となる影にはユダヤ人の活躍が欠かせませんでした。ユダヤ人はコミュニティーの安全を保障され、商業取引、薬屋、染織業で重要な地位を占めることになったのです。>>>続く

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Barrio Santa Cruz (トリップアドバイザー提供)

ヒラルダ~くるくるちゃん その1


 セビリア大聖堂の写真
ヒラルダの塔

セビリアの大聖堂の塔上ヒラルダは今は回っていないようですが、以前は時刻とともにくるくると回転していたと友人から聞きました。なんていっても「ヒラルダ」(くるくるちゃん)なので回らないと名折れですよね。現在も止まったままでしょうか?

セビリア大聖堂は、建築開始が1402年、完成が1506年といいますから100年以上ずっとやっていたんですね。おそらく、壊れては直し、壊れては直し、を続けていたんでしょうね。

また、ドームは何回か崩落しているようです。完成から5年後に一回崩落しました。そして1888年の地震では、イベリア半島のみならず、北アフリカモロッコまで塔という塔が崩落したようです。 セビリア大聖堂 (トリップアドバイザー提供)

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