2013年12月5日木曜日

モロッコ料理のタジンや 飯田橋

飯田橋から富士見の丘を目指して坂を歩いて行くと、タジンやさんが左手に見えてきます。
土曜よるはベリーダンスで楽しめますよ。最高でした。またいきたい。太鼓もたくさん叩いたなあ。

タジンや 飯田橋

2013年11月21日木曜日

Casablanca Mosque Hassan

Casablanca Mosque Hassan by laura0509
Casablanca Mosque Hassan, a photo by laura0509 on Flickr.

モロッコのカサブランカにミナレットが220Mだったかな、ハッサン2世が建造を命じたモスクが完成してお披露目があったのが、1998年ごろだったと思います。ハンマームも備えてあり、総大理石でした。まあ、素晴らしい現在モスクでした。

日本から議員団が見学に訪れ、団長さんが、革の表紙のあ縦横1mはあるかと思うくらいの日齢書に記帳したのですが、モンゴルと間違えちゃって。。。日本語だったからわからなかったかなあ。モンゴルによってから来たから、モンゴルとモロッコ頭の中でごっちゃになっていたのかもね。

2013年10月24日木曜日

Morocco Khemiset モロッコのケミセットは、アジア週間 الخمیسات

Morocco_Khemiset_summer 2012 by @tofe_75
Morocco_Khemiset_summer 2012, a photo by @tofe_75 on Flickr.

モロッコはケミセットالخمیساتの州知事さんが、とてもアジアびいきで毎年アジア週間として、アセアンプラス日本・韓国・中国の大使館連携で催しものを開催します。

出し物は様々ですが、例えば、タイからは、野外にリングを設営してタイのキックボクシングの選手を招聘し、試合を見せたり、日本の場合は、モロッコの柔道連盟からビニール畳を借りて、これも、野外に敷き詰め、柔道や弓道をモロッコの一般大衆にご披露したりしました。

さらには、野外ステージを設けて、なんと、日本人バンドで演奏をし、拍手喝采を浴びました。曲目は、デープパープルのハイウェイスター、マイリトルラバーのメンアンドウーマン、あとなんだったけかなあ。。。そうだ、大使公邸の首席コックさんがアコースティック・ギターで弾き語りをしました。曲はイマジンだったかも。

とにかく、あまりに受けて、踊りだす人もいたので、警官が配備されてしまいました。観客席前列にはモロッコの、いわゆる、VIPもいましたので、そうなったんですね。

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2013年10月22日火曜日

Asilah/ أصيلة - Maroc – Morocco タンジェからアシラ

タンジェの港から列車に乗っても、また、車で海岸沿いをラバトに向かっても、やがて、アシラー、アラビア語ではむし ろآصیلةアシーラという街に到着します。ここは、ほんとにちいさくまとまっていて、観光するにはもってこいなのですが、初めて来た旅人にダマシもある ようです。

タンジェで誘われて、アシラーで降ろされて、絨毯などの土産モノ屋に連れて行かれたり、宿やでもない民家に泊められてホテル並に料金を取られたりすることがあるようですがそれは、それで旅の一コマだと思います。なんてことはありません。

ガイド、ガイドとうるさくて、困ったという人もいますが、一人つかまえてチップをあげれば、他の人はよって来ません。ただし、「絨毯屋にはつれていくなよ」といえばいいでしょう。

アシラーの旧市街の端は大西洋に面しています。海は静かな時もあれば、荒れ狂ってる時もあります。ある日、「日本人が宿賃 を払わずにとんずらした!」といってアシラーからおばさんがわざわざラバトの大使館まで訪ねてきました。そんなことあるのかと思いパスポートのコピーを見 せてもらいましたが、パスポートは韓国か北朝鮮のモノでどう見ても偽造品でした。

日本からの観光客が多いので、写真を見て、日本人だと思ったんでしょうね。「おばあさん、日本人で宿賃を踏み倒すなんてい う旅行者はまずいませんよ。これは、韓国や北朝鮮のモノでしかも、偽物です。」と説明しましたが、おばさんは、くやしそうでした。「だって、日本人だと いったんだもの。」電話代も結構な金額になっていたそうです。。。。ひどいやつがいたもんだ。帰りの電車賃をカンパしてあげました。

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2013年10月20日日曜日

今も昔も国際都市タンジェ。そしてナーイブ。

タンジール。タンジェ。طنجة、いくつもの表記があるモロッコの玄関口、国際都市ですが、港をでると、やがて、広いとおりに出て、かつては、すぐ左手に駅が見えてきました。タンジェポール(tanger port)だったとおもいますが、ここから列車に乗って、フェス、ラバト、カサブランカ、マラケシュとモロッコの奥へ奥へと入っていくことができました。今は、タンジェビル(tanger ville)が最初の駅になっているようです。物流の拠点が東のタンジェの新港タンジェメッド(tanger med)に移ったからなんですね。モロッコも経済活動が着実に拡大しているようです。
 
タンジェポール駅の反対側に、シェリタリングスカイでも登場した古い建物が見えてきます。フランス保護統治時代、映画カサブランカを思い出させる印象的な白い建物です。 その裏手のほうはずっと小高い丘になっていて、旧市街に入ります。プチソッコやグランソッコという名前が出てきますが、ソッコはアラビア語のصوق・ souk・スーク・市場が転訛したものです。ここは、昼は、観光客相手の土産物屋が並んでいて楽しいです。タンジェの街は、夜は夜で別の顔がありますね。。。。。。。

また、グランソッコから港に通じるRue Siaghine はその昔、紀元前のローマ時代はメインストリートだったよです。今は、メイン通りとはまったくいえませんが、Hotel El Minzahという5つ星ホテルがあります。この近くには1860年から1923年までナーイブ نائبが使用していた屋敷もあります。ナーイブは起源はオスマントルコ行政ポストを示す名称ですが、その地方地方を治める力のある人物がなりました。モロッコでもナーイブは、スルタンと各国大使の間を取り持つ偉い人が就く重要なポストでした。

ナーイブの力を示す絵や写真が残っていますので、今でも雰囲気がわかります。 下の絵は、カルナチック(インド南東部の海岸地方。18世紀中ごろ、英仏が主導権をめぐって抗争し、英国が支配権を得た)のナーイブが英国東インド会社との条約を締結した場面ですが、とっても偉そうですね。

File:Major-General the Hon. Arthur Wellesley being received in durbar at the Chepauk Palace Madras by Azim al-Daula Nawab of the Carnatic 18th February 1805.jpg
A portrait of Azim-ud-Daula by Thomas Day

2013年10月18日金曜日

オット!タンジェ側フェリー乗船前の心構えについて。

cannabis by Cappez
cannabis, a photo by Cappez on Flickr.
アルヘシラスからのフェリーはさほど何事もなく車ともども乗船するのですが、モロッコ側のタンジェではそうはいかないのです。タンジェでは、フェリー乗り場につくと、乗船する車の列に捜査官とシェパードがやってきて、車の下を「くんくん」します。

一台一台クンクンしていくのです。そういえば、どこの国際空港でも言われるのが、「荷物の空きがあるからといって他人の荷物を預かるな」ということです。「5000円払うからこの荷物そっちにつけてくれない」という申し出は「できません。」と断った方が懸命です。その荷物の中身と国次第では命にかかわるでしょう。

さて、モロッコのリーフ地方は、ハシシの一大産地なので持ち出しが絶えません。車に積んで堂々とフェリーで持ち出すというのがあるのかというと、そんなにはないでしょうけど、中には、カフェでお茶していて、自分が知らないうちに、車の下にくっつけられるという手口があるので気をつけなくてはなりません。そこで、犬が車の下を「クンクン」しているわけです。

リーフは数回にわたり訪れましたが、カンナビスのパラダイスで、どちらサイドの人も、見る人が見たら卒倒してしまうでしょうね。一人は「天国!」といい、もう一人は「地獄!」と言うでしょうね。

2013年10月17日木曜日

700年は「異常」なくらい長い期間だなあ。その1

Cadiz by matoses
Cadiz, a photo by matoses on Flickr.
アルヘシラスのフェリー乗り場に到着すると、対岸には、アフリカ大陸が見える。ここに来ると、ある人は、ヨーロッパを離れてこれから北アフリカモロッコのアラブ・ベルベル世界に足を踏み入れるんだということで少し、緊張するかもしれないし、ある人は、故郷にかえるような懐かしさでいっぱいになるかもしれない。小生は完全に後者である。

スペインは、かつて、約700年間もイスラムの支配下にあった。それは、711年から1492年グラナダにあった最後のイスラム王朝が再征服され、キリスト教徒によるレコンキスタが完成するまでの約700年だが、レコンキスタから今年2013年までで、約500年位しか経っていないのを考えると、700年間というのは本当に「異常」ともいえるほど長い期間なのである。

この間をスペインのアラブ化というかベルベル化というかは別として、イスラム支配下に置かれていたことは確かである。キリスト教徒ユダヤ教徒ともにイスラム側から、「啓典の民」として一応庇護されていたとしても、人頭税、土地税という税金を負わされていたし、日々の生活でもかなりの屈辱を甘受せざるを得ない状況であっただろう。

モサラベ(ムスタアリブمستعرب、アラブ化したもの)は、言語文化的にアラブ化したものの、服装で区別され、ムスリムが通れば立ち上がらなくてはならない、家はムスリムの家より低くなければならない、教会の鐘は小さくならさなければならない等、様々に被征服民としての対応を強いられた。